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シンフォニストモーツァルト〜交響曲はモーツァルトが創った!?

  1. 2006/04/16(日) 01:00:51|
  2. コンサート|
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 今年、遂に生誕250周年を迎えたモーツァルトだが、人気はともかく何故か音楽史的な評価に関しては未だに「交響曲の父」ハイドンの後塵を拝しているようでもある。その最大の原因はモーツァルトにとって、さしづめ「エロイカ」に当たるような代表作が不当に等閑視されていることだろう。ハイドン、モーツァルトと生年順に並べられることの多い二人だが、19世紀の空気を9年間も吸い、「運命」「田園」の初演あたりまで余裕で生き抜き、ベートーヴェンの活躍ぶりも見届けることのできた長命なハイドンと、没後9年も経ってようやく19世紀がやって来た夭折の天才モーツァルトとではいったいどちらが先人なのであろうか?古くて新しいモーツァルト。
 モーツァルトには名曲が多い。だがまだまだ隠れたる名曲、知られざるモーツァルトの類いは多数存在している。素晴らしい名曲にも関わらず演奏頻度の低いモーツァルト作品の最たるものはポストホルンセレナードK320ではなかろうか。熱心なモーツァルトファンなら必ず「私の好きなモーツァルト作品十傑」に入れるようなチャーミングな曲だが、娯楽作品であるためか演奏機会にほとんど恵まれないのは残念なことである。日本人の重厚好みのせいか管弦楽曲では交響曲だけが重要視され、セレナードやディベルティメントの類はとかく軽く見られがちなのである。ところがポストホルンセレナードは実はモーツァルトの生前はレッキとした交響曲だったのである。これも出自がセレナードであるハフナー交響曲のように。
 「ポストホルン」はベーレンライター社の新全集の交響曲部門に3楽章版が収録されている通り、ハフナーや現在では偽作と判明したため抹殺されてしまった37番と共に彼の生前はもっぱら交響曲として演奏されていた。そしてコンスタンツェがモーツァルトの没後、彼が遺した楽譜 類をオッフェンバッハの楽譜出版社アンドレに一山いくらで叩き売った際に、「ポストホルン」の原譜も含まれていたため1792年に3楽章の交響曲として出版されたのである。もうセレナードは既に古い形式だったので使い道のある交響曲として出版した方が売れ行きが良かったのであろう。それを19世紀にモーツァルト学者がセレナードに戻してしまったのである。そのため疑いもなく1770年代までに作られた最も重要な交響曲が番外編の2流の管弦楽曲扱いされ、長い間交響曲の歴史から全く無視されて来てしまっていたのだ。
 一方、現在では欠番になっている第37番はミヒャエル・ハイドンの交響曲にモーツァルトが序奏を付けたものだが、該当部分の自筆譜があったためかモーツァルトらしからぬ曲想にも関わらず1907年まで永く番号付の正規交響曲としてまかり通っていたのである。
 ハフナー交響曲はザルツブルクの趣味に合わせてメヌエット抜きの3楽章構成の交響曲として初演されたが、周知のように原曲は二つ目のハフナーセレナードであり、「ポストホルン」が幸運?にも全7楽章が保存されていたため格下のセレナードとして後世に伝わることになってしまったのとは対照的に、ハフナー交響曲は皮肉なことに削除された楽章が紛失してしまったため多楽章のセレナードとしての復元が不可能となり番号付きの正規交響曲として残ったのである。「ポストホルン」はもう一つのハフナー交響曲なのである。
 逆にマーラーの交響曲にしばしば見られる多楽章制は、或いはマーラー自身が先祖返りというか、セレナードやディヴェルティメントが交響曲と全く質的差がない曲種だったという、モーツァルト時代と同じような交響曲観を持っていたためかもしれないが、百足の足ではあるまいし楽章は多ければいいというものではない。アイネ・クライネ・ナハト・ムジークにしても4楽章だからあれだけ演奏されるのであって、オリジナルの5楽章だったら果たしてどうなっていたことか(昔、サーストンダート指揮によるオワゾリール盤に全く関係のないメヌエットを第2楽章にした5楽章版があった)。ランゲによる有名な未完成の肖像画「ピアノを弾くモーツァルト」にしても顔だけのカット版の方が遥かに良く知られているのは全体が未完成であるためだけではあるまい。完全版より余計な部分をカットし、一部分だけをクローズアップして編集した方が真実を伝える場合も多々あるのだ。特にセレナードやディヴェルティメントという楽曲は最早廃れてしまった形式なので演奏会で取り上げられる機会もあまりない。ただポストホルンセレナードの協奏交響曲的楽章のうち第4楽章ロンドーだけは捨てるに惜しいチャーミングな佳曲なので、間奏曲やアンコール曲として多用されるのが望ましい。或いはこの楽章あるが故にセレナードに戻されてしまったのかもしれないが。
 モーツァルトの時代の交響曲は「交響曲」ではなかった。作曲家が生涯に九つしか書けないような大曲という意味は全くなく、演奏会用の序曲と終了の音楽として分割演奏すら普通であり、セレナードやディヴェルティメントなどの機会音楽、娯楽作品と全く同格であった。モーツァルトは父レオポルトとの手紙のやりとりでもセレナードやディヴェルティメントのことをジンフォニーと言ったり、ごっちゃにして使っており、交響曲にはまだ管弦楽曲という意味合いしかなかった。「交響曲」はまだ存在していなかったのである。それをベートーヴェンが人生のドラマを表現するような大仰なものに変えてしまったのであるが、「第九」になると求道心の展開とでも言いたいような様相を呈しているようだ。
 モーツァルトは当時、彼自身の様々な演奏会のため、演奏会用序曲としての交響曲を多数必要としていた。リンツ交響曲もこのような目的のために旅先のリンツで僅か数日のうちに慌ただしく作曲されたが、「ポストホルン」や「ハフナー」のように既存のセレナードを交響曲として転用したり、第37番のようにやむを得ず他の作曲家の作品をパクったりしたのである(当時は珍しいことではなかったが)。
 交響曲とはモーツァルトにとっては演奏会用序曲に過ぎなかったが、演奏会という「祝祭」の序曲である交響曲はハレとケ、非日常と日常を分かつものなのである。「バイロイトの第九」もバイロイト音楽祭という祝祭でそういう使われ方をしていたようだが。
 周知のようにハイドンの104曲を数える交響曲群も傑作とされる曲は全てモーツァルトの三大交響曲成立以降の作曲であり、ザロモンセットはモーツァルト没年から作曲が開始されている。「ポストホルン」が作られた1779年当時、ハイドンの交響曲はまだ60番台。「校長先生」「うかつ者」の時代で「ポストホルン」こそ史上初の名曲たる「交響曲」なのである。
 そして「ポストホルン」はモーツァルトの交響曲としては出版も早く、アンドレ社の初版の2年前、モーツァルトの生存中に既にロンドンで海賊版が出されていたようだが、それはメヌエットをも含めた完全な4楽章構成の交響曲としてであり、このヴァージョンで考えるとこの曲はやはり交響曲史上特筆大書すべき曲であることがわかる。モーツァルトの交響曲としては初めて採用された壮麗なマエストーソの序奏(しかもこれは再現される!)付きの堂々たる第1楽章といい、自己告白の不能者モーツァルトにはあり得ぬ筈の内心を吐露し呻くようなニ短調の緩徐楽章もモーツァルトの交響曲中、他に全く例を見ない。そして珍しい5部形式のメヌエットも直接ベートーヴェンの5部形式のスケルツォを暗示しているのではなかろうか。さらにフィナーレはザルツブルク大学教養課程修了の祝賀に相応しく活力に満ちた威勢のいい若者の旅立ちの音楽であり、ベートーヴェン「第7」を小型にしたような熱狂的な交響曲が一つ増える。もしこの曲が4楽章版交響曲として頻繁に演奏されるようになったら「ハフナー」「リンツ」はおろか「プラハ」や三大交響曲に匹敵する史上初の名作「交響曲」が実はモーツァルトにより既に1779年に作曲されていたことが明らかになるであろう。ことによると最後のモーツァルトルネッサンスとなるやもしれぬ。だがモーツァルトにこの交響曲を産み出させた原動力とはいったい何だろう。
 「交響曲」の誕生には渇望やら葛藤やら、何らかの苦悩がなければならぬ。モーツァルトファンには周知のことだが、1778年、22歳のモーツァルトを襲った青春の激動ーー母の死、アロイジアへの恋と失恋、雇い主の大司教コロレドとの確執、そして脱サラの失敗が翌年、この交響曲を産み出したのではなかろうか。
 当時、モーツァルトとその雇い主であったザルツブルク大司教コロレドの間柄はこんな感じであったと言われる。
大司教:駄目だと言ったら駄目だ。
モーツァルト:ちぇっ、うるさい。相変わらずの頑固爺だ。
大:モーツァルトさん、何か言いましたか?
M:いえいえ、何でもありません。こっちのことです。
 「ポストホルン」第1楽章の序奏はたった6小節しかなく、まだまだ短いが「これからひと騒動おっ始めるぞ」という感じの荘厳でしずしずとした音楽である(嵐の前の静けさ?)そして再現もされるが、第2主題部分にはアルフレート・アインシュタインの指摘のように「わからず屋のコロレド」(譜例1)とでもいうか、まるで「ドン・ジョヴァンニ」序曲第2主題の騎士長とドン・ジョヴァンニを想わせる音型の対立の先駆のような手法がみられる。続く、この時代としては非常に珍しい、マンハイム楽派からの影響とされるピアニッシモからのポコ・ア・ポコ・クレッシェンドの部分(譜例2)ではこの「わからず屋のコロレド」の動機が8回も奏されるが、まるで大司教コロレドが次第にプルプル震え出し、遂に激怒し爆発するのを揶揄するような狂躁的な音楽になっている。そして展開部の中間(譜例3)ではコロレドの雷撃(一喝?)からヒラリヒラリと軽やかに身をかわすモーツァルトの姿がオーボエにより活写されるなど、この楽章は真にブッファ的な戦闘的性格を持っているのである。さらにメヌエットでポストホルンを使った理由は?郵便馬車絡みで色々考えられるのだが。また第1トリオにおけるフラウティーノの空白はモーツァルトの不在でも表すのだろうか。
 フルトヴェングラーは「魔笛」序曲を「教室風の音楽」と呼んでいたようだが、モーツァルトはフリーメイスンの硬直した価値観を揶揄するため、彼の「魔笛」序曲に技術屋クレメンティのセンスのまるでない硬直したソナタの主題を利用したに相違ない。後年クレメンティは彼の「魔笛」ソナタにモーツァルトが自分の主題をパクったと自慢げに「証拠表示」していたようだが、何のことはない、モーツァルトはパクったのではなく、クレメンティをバカにしていただけなのだから世話はない。
 モーツァルトのこの手の音楽は大抵ショスタコーヴィチのように隠し絵ならぬ「隠し音楽」なのであるが、ショスタコーヴィチにとってのスターリンの圧政はモーツァルトにとっては大司教コロレドだった。モーツァルトも権力者に対してこのように音楽で仕掛け、大いに溜飲を下げたことだろう。小林秀雄は「モオツァルト」で、モーツァルトが玉突屋の亭主と酒を呑み、どんな独創的な冗談話をしこたま発明したか、記録に遺されていないのを残念がっていたが、音楽にはちゃんと遺っていたのである。余談だが、小林秀雄「モオツァルト」の有名な「疾走するかなしさ」ーートリステスアラント(溌溂としたかなしさ)とは「四十番」のことではない。小林秀雄は明らかに「ジュピター」のフィナーレを念頭に置いていた。「トリステス・アラント−−モオツァルトの主題を形容しようとして、こういう互に矛盾する二重の観念を同時に思い浮かべるのは、極めて自然な様に思われる」と書いた上でさらに「残酷な優しさ」や「真面目くさった諧謔」という例をわざわざ挙げているのだ。「一つの主題自身が、まさに破れんとする平衡の上に慄えている」彼はトリステス(かなしさ)とアラント(溌溂とした)をはっきり矛盾する概念と認識していたのである。
 モーツァルトにとって作曲とは、世間の愚劣な偶然の要求に応じて慌ただしい心労のうちになされるもので、その場、その場の取り引きだった。当時は交響曲もセレナードも大差ない曲種であり、ハイドンの交響曲が職人的乃至は学者的、アカデミックな創作態度により作り上げられたのに比し、モーツァルトの交響曲はセレナードの多様性が起源なのである。音楽とはあれだのこれだのの音楽を言うのではない。あらゆる音楽こそが音楽である。そういう確信のない所にモーツァルトの音楽の多様性がどうして現れるだろうか。交響曲はモーツァルトの五里霧中の努力によって作られた。即ち行き当りばったりである。トリステス・アラント(溌溂としたかなしさ)の正体とはアモール・ファティ(運命愛)であり、即ちブッファ精神のことなのである。
* この「ポストホルン」をモーツァルトの番号付き正規交響曲として復権する試みがいよいよ6月2日、東京芸術劇場で内藤彰と東京ニューシティ管により行われることになった。番号は現在欠番となっている37番を使用。
(音楽現代5月号掲載)

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